琵琶という音......

 

琵琶をひき始めて、もうで20年以上になる。

 

 

琵琶楽と書くけれど、

琵琶を弾いて純粋に楽しんだ事は

たぶん一度も無い。

 

 

でも、琵琶学なら、しっくりくる。

非常に難しい学問。

 

 

苦悩が喜びなら、

琵琶奏者に向いているかもしれない。

 

 

セックスピストルズで音楽に目覚め、

琵琶の世界に入る前、

ボーカルとギターで

バンド活動をしていた。

 

 

洋楽邦楽問わず、

好きな音楽がいっぱいあった。

あげればきりがないほど。

 

 

 

 

でも、琵琶にのめり込むほどに、

音楽というものを聞かなくなった。

というか、いらなくなった。

 

 

音楽は、

 

 

心には残らずに

ただ通り過ぎていくだけのものになった。

 

 

それは、

今まで自分の中にあった「リズム」が

「間(ま)」というものに

変化したからなのかもしれない。

 

 

変則的とはいえども、

ある程度は規則正しく続く「リズム」と、

まったく不規則で捉えようのない「間」。

 

 

そして、「音楽」からただの「音」へ。

 

 

ひとつの音が放たれる。

 

 

そして沈黙が続く。

 

 

そしてまた音が放たれる。

 

 

音と音のあいだにある「間」、

 

 

すなわち沈黙は、

 

 

原始的な感覚を呼び覚ます。

 

 

 

 

いつまで続くか分からないその沈黙に、

ある人は無限の恐怖を感じるかもしれない。

 

 

「間」はその時々で自由に伸び縮みし、

人の心の襞に入り込む。

 

 

 

 

琵琶奏者は、

それを聞く者達を載せて

海へと船を漕ぎだし

舵を取る。

 

 

そして、沈黙を司り、

心と体を揺さぶる。

そうあるべきで、

そうありたい。

 

 

 

 

琵琶の「1音」も「間」も

時間ではない。

きっと本来は、

文字に表す事もできない。

琵琶譜面の存在は。。。

(琵琶譜は4線譜でギターのタブ譜のように指のおさえが記してある。)

 

 

それはおおまかな方向が書かれた

地図みたいなものかもしれない。

 

 

琵琶発声による声にも同じ事が言える。

琵琶発声とは、下半身、

主に腰のバネを使って出す声で、

腰で作られた音は、

体によって響きが加えられ、

口腔によって加味され、

外へと出る。

 

 

 

 

高い声になればなるほどに、

腰の筋力とバネが必要になる。

最良の時は、体が空っぽになって、

天と地が繋がったかのように感じる。

 

 

 

 

この事を今のように文字で書いて、

仮に頭で理解しても、

 

 

「その音」はたぶん出ない。

 

 

同じく、

 

 

琵琶のおさえる場所をおさえても、

 

 

「その音」は出ない。

 

 

「その音」は文字では表せない音だから。

耳で聞いて体で覚えるしかない。

 

 

 

 

琵琶はギターなどと違って、

幅1センチ、高さ5センチくらいある駒

(ギターでいうとフレット)

に弦を押し込んで(しめ込んで)

音の高低を作り出すので、

なおさらその良い塩梅を書きだす事が、

難しいのかもしれない。

 

 

琵琶の音は、

音階を嫌い、

音階から逃げていく。

 

 

逃げて逃げて襖を開けて庭へと出て、

 

 

ついには森の奥へと消えてしまう。

 

 

五線譜を用いて琵琶曲を弾き語るなんてことは、

琵琶の音を拒絶した、

とても馬鹿らしい行いだと私は思う。

 

 

譜面から逃げていく1音に憧れを持ち、

どこまでも追いかけていく。

その1音で世界が完結するまで。

 

 

ひとつの音を放つ。

 

 

 

 

そして、沈黙がやってきた時、

音が途切れてしまったかのように感じる。

 

 

 

 

でも、奏者の精神が続いているのなら、

その音は永遠に続いている。

 

 

音の鳴っていない時にこそ、

 

 

音を感じる。

 

 

 

 

 

 

そして緊張感を保ったまま、

 

 

また、ひとつの音が放たれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

それが琵琶曲なのだと思う。

 

西原鶴真

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